千年祀り唄
―宿儺編―


4 音の翼


「おまえ、見かけない顔だな?」
「どこの子だ?」

春休み。ゆったりとした昼下がり。そこには柔らかな季節の風が吹いていた。
そこは市営の大きな公園だった。たくさんの遊具が有り、花壇や遊歩道も完備している。
大きい子達はアスレチックやサイクリング、サッカーなどの球技を楽しむことができた。そして、小さい子達のためには安全に遊べる定番の遊具も数多く備えられていた。

ここは小さい子向けの一角だった。5、6才の男の子が三人、象の形をした遊具の周囲を取り囲んで言った。そこには2、3才の男の子がたった一人で乗っていた。その子は白地に赤いチューリップの花の模様が付いた毛糸の帽子を被り、赤いシャツにデニム生地のオーバーオールを着ていた。

「……」
「おい、何とか言えよ」
「おまえ、しゃべれないのか?」
「どこから来たのかって言ってんだぞ」
男の子達が言う。
「あっち」
象に乗ったままその子が指さす。
「あっちじゃわかんねえよ」
「そうだそうだ。わかんねえよ」
一人が言うと、みんながそれに続いて同じことを言う。

「おまえ、おりろよ」
一人が言った。
「そうだそうだ。おりろよ」
「次はおれたちがのるんだからな」
「……」
が、その子は握り手をしっかり掴んだまま放そうとしない。
「聞こえなかったのか? おりろっていったんだぞ」
「そうだそうだ。早くおりろ」

似たような遊具はたくさんあった。そして、そのどれもが空いていた。それでも、子ども達はこのたった一つの遊具に固執した。
「そこどけよ! こんどはおれがのるんだ」
一番体格のいい子がその子の胸を突いた。
「あ!」
その子はバランスを崩し、遊具から滑り落ちた。が、泣きもせず、そこにうつ伏せたままじっと動かずにいる。

「どけよ。そこにいたらじゃまだよ」
倒れている子を足でどかして強引にその遊具に乗ろうとした。その時、うつ伏せていた子どもが手を伸ばしてその子の足を掴んだ。
「バカ! 何すんだよ? はなせ!」
その手を振りほどこうと足を振るが、きつく握ったまま放してくれない。
「このやろう!」
「はなせ!」
二人の子どもも加勢する。

――はなさない

帽子の下の感情が滾る。
「どけ!」
その肩を蹴りつけた。
「きゃっ!」
その子もさすがに悲鳴を上げて手を放した。
「バ、バカヤロー。おまえがわるいんだぞ」
蹴った子どもは驚いて少しだけ後退した。他の二人もそれに続く。

――にがさない

白い帽子がずれていた。肩まで伸びた黒髪がはらりと落ちる。その後頭部に光が当たり、そこに鮮明な影が浮かび上がった。
「な、何だ?」
「こいつのあたま……!」
子ども達の表情が強張る。
「こいつ、何か変だよ」
彼らはじりじりと後退した。

「まって。もっとぼくとあそんでよ」
彼はゆっくりと顔を上げると上半身を手で支え、ずるずると這った。その足が捻じれ、脱げかけた靴とズボンの隙間から細い足首が覗く。
「おまえ、足が……」
「おばけ!」
「くるなっ!」
子ども達は口ぐちに叫ぶとその場から逃げ出して言った。

「いっちゃった」
彼はずれた帽子を直すとぽつんと言った。頭上で鳴る葉ずれの音。そして、目の前に伸びる遊具の影。春の陽射しは心地よかった。ポケットに付いたアップリケのライオンも陽に照らされてほかほかと温かい。
鳥の声。光の鼓動。透き通ったプリズムの音階を風が奏でて行く……。
(気持ちいい音……)
さくさくと、とんとんと……。それはゆっくりと近づいて来た。彼はうっとりとまどろむ。

「君、大丈夫?」
そこには10才くらいの少年が立っていた。
「ケガはない?」
その子が手伝って起こしてくれた。

「君、歩けないの?」
「うん。でも、ママといるの」
「ママはどこ?」
「ここでまっててって」
「そう。それじゃ、ママが来るまで待っていようか」
そう言うと、少年は子どもを抱えた。ぴったりと触れあう鼓動。小さな手がその体温に触れる。

「いいおとがする……」
そう言うと子どもは彼の胸に耳を当てた。
「ぼくは優介(ゆうすけ)。君の名前は?」
少年が訊いた。
「かずね(和音)」
子どもが答える。
「和音君か。かわいい名前だね」
彼は笑って子どもを象の背に座らせた。

「和音君は象さんが好きなの?」
「うん。すき!」
「ぼくもだよ。前に本物の象を見たんだ。すごく大きくて強そうで……。でも、目は思ったより小さくてやさしそうだったよ。和音君は本物の象さんを見たことある?」
「ううん。ない」
子どもはそう答えてからふと考えた。
(それはどんな音がするんだろう? 大きいから低い音? それとも高い音? どんなメロディーで歩くんだろう?)
和音は想像を巡らせた。

「ねえ、さっき言ってたでしょう? いい音がするって……それって何なの?」
突然、優介が訊いた。
「ゆうすけのおと……」
子どもが見上げる。
「ぼくの?」
少年は戸惑っていた。しかし、和音は軽く首を揺らして続ける。
「ピアノのおとがする」

「ピアノ……」

少年の鼓動が一瞬鋭く高鳴った。
「ゆうすけのしんぞう、ピアノとおなじおとがする」
少年の心に様々な思いと感情が交錯した。繊細で美しい少女の白い指先。艶のある黒い髪。そして、光の粒子を散りばめたような白いドレス。もう届かない記憶の影……。

「和音君はピアノが好きなの?」
「うん」
彼が頷く。
「ぼくもだよ。でも、もうだめなんだ」
少年が悲しそうに呟く。
「ぼくの家、貧乏になって、それでもうピアノが弾けなくなっちゃった」
そんな吐息にさえ、ある種の悲しいメロディーが含まれていた。

「どうして?」
和音が訊いた。
「お父さんの会社が倒産したんだ。それで……」
優介はそう言ったが、子どもの表情が動かないのを見て、慌てて言った。
「ごめん。そんなこと言ってもよくわからないよね。つまり、お金がなくなっちゃったからピアノも売ってしまったし、もう教室に通うこともできなくなっちゃったんだ」

「ゆうすけはピアノがひきたいの?」
「うん。でも、いいんだ。無理を言っても仕方がないし、お父さん達を困らせたくないから……」
「ほんとにそれでいいの?」
和音がじっとその顔を見上げる。
いい筈がなかった。鼓動は正直に拒んでいるのだから……。

「ひけるよ」
和音が言った。
「え?」
「ゆうすけがのぞむならきっとひける」
励ましてくれているのだと思った。小さな子が一生懸命に自分を元気づけようと気を遣ってくれているのだと……。ならば、自分はそれに応えなければと優介は思った。
「ありがとう。でも……」
その時、和音の母親が帰って来た。

「ママ!」
和音が早速腕を伸ばして抱っこをねだる。
「ゆうすけにあそんでもらったの」
和音が言った。
「まあ、それはどうもありがとう」
母親がお礼を言って頭を下げた。それは美しい女だった。彼女は透けるような白い肌をしていた。薄く紅を差したような唇は微かに笑んで、白い光沢のある生地に淡いパステルの花模様のワンピースを着ている。

「あの、ぼく、もう帰ります」
優介が言った。
「ママが来たから、もう大丈夫でしょう?」
和音に向かって言った。が、彼は何も言わず、母の胸に顔をこすりつけた。
「……お兄ちゃんが帰っちゃうから拗ねてるのね」
そう言って母が微笑する。

「気にしないでね。この子にはお友達がいないの。だから、いっしょに遊んでもらえて、とってもうれしかったんだと思うの」
母親が説明する。
「そうか。だったら、またいっしょに遊ぼう」
優介が言った。
「ほんと?」
和音がぱっと顔を上げる。
「明日、またここで」
「うん」
和音はにこりと微笑んだ。瞳の中で小さな光がくるくると踊っている。和音はまるで生きた人形のように愛らしい顔をしていた。
風がさらさらと通り過ぎた。
「バイバイ」
和音が笑う。
「バイバイ、和音君。またね」


翌日。優介は約束した通りの時間にその場所に来た。しかし、そこに和音の姿はなかった。
「忘れちゃったのかな? それとも、急な用事でもできたんだろうか?」
少年がきょろきょろと辺りを見回すと、象の遊具の向こうに立っていた中学生くらいの少年が手を振った。他に誰もいないので自分に対してのものなのだとわかったが、どうも納得がいかない。

「優介、ここだよ」
彼が呼んだ。
「まさか、君……。和音君?」
「そうだよ。どうしたの? そんな顔して……」
「だって、君……」
からかわれているのだと思った。確かに和音と顔立ちは似ている。いや、むしろ本人そのものといった風だった。しかし、身長は優介より頭二つほど高い。そして、足も不自由ではなかった。いわば別人なのだ。顔が似ているということは和音の兄かもしれないと彼は思った。

「あなたは、和音君のお兄さんですか?」
そう訊いてみた。しかし、その少年は首を横に振って言った。
「ふふふ。ぼくだよ。忘れちゃったの? 昨日、象さんを見たってお話してくれたでしょう? 身体の割に、可愛い目をしてたって言ったじゃないか」
「確かにそう言ったけど……」
にわかには信じられなかった。
「今日はね、ぼく、ピアノを弾くために来たんだよ」
和音が言った。
「ピアノ?」
「そう。君もだよ。さあ、心を開いて、君のピアノを聞かせてよ」


光のヴェールのカーテンが幾重にも連なっていた。
緑の森とオーロラの光……。
絡み合う枝と風の鼓動。
その森のずっと奥から響いて来る音楽は少年の記憶と魂の鼓動そのものだった。

「これは……」
その正体が知りたくて、優介は足を進めた。緑の葉の一枚一枚が震えるように、彼の心もまた震えていた。
「ピアノ」
光のカーテンの向こうでそれを弾いていたのは和音だった。

触れたら壊れてしまいそうな繊細な調べ。それでいて、どんな嵐にも流されることのない強い意志と迸る激情……。その一連の音符の広がりが宇宙の深淵へと連なって行く……。少年に降り注いだ音の粒子は、他の誰にも感じ得ない幸福と甘美な時間をもたらした。

「和音……」
その音符は光と風で出来ていた。そして、その幻のピアノを奏でている和音もまた幻の子ども……。燃え上がる炎のような灼熱のオーラと漆黒の闇を纏って弾く腕は、2本ではなかった。そして、帽子の下から現れたもう一つの顔。狂喜する鬼の面……。少年は恐ろしいと思った。しかし、離れられなかった。足が動かず、息を呑んだまま呼吸が止まってしまったように、その面に魅入られてしまったのだ。

言葉もなかった。声も出なかった。そして、少年は黙って涙を流した。
(こんなすごい音楽……聴いたことがない)
和音から伸びた4本の手が鍵盤の上を自在に踊り、跳ねまわり、音の手綱を操り遊ぶ。音は風と戯れて、光に溶けて闇となる。そして、その闇から生まれた音の子どもは、再び鍵盤となり、和音によって弾かれて音となる。
この世にあるあらゆる音階の、そして、あらゆる音程の音楽を、彼は持っているのだ。

「和音……」
彼は音そのものなのだ。
そして、音のすべてが和音を構成している。
音の妖……オトスクナ。

「優介、君もおいでよ。いっしょに遊ぼう」
和音が呼んだ。その4本の手で、その黒く澄んだ深淵の瞳で……。魅惑的な誘い……。甘い調べに乗せてなおも呼ぶ。
「優介」

少年の鼓動は高鳴った。このまま彼と行ってしまいたい。この上ない喜びと幸福に満ちた音に抱かれて……。永遠の音に溶けてしまいたい。そうすれば、もう苦しむこともない。滾る情熱に恋焦がれて泣くこともない。音の世界で、音そのものとして生き続ける。オトスクナとして……。

「おいでよ」
和音が呼んだ。
「おいで。ぼくの中へ……」
意識が溶けそうになった。
「優介、君が好きだよ」
いつの間にか優介は和音の隣でいっしょにピアノを弾いていた。そんな少年の耳にスクナが甘い声で囁く。

「ずっと友達が欲しかった。ひとりぼっちは寂しいよ。だから、行こうよ」
心が熱く、指先が震える。聞こえるのは鼓動。流れるのは時の風。これまで聞いたことのない音楽に心を奪われそうになった。

「この曲は何?」
「美しいだろう? これは優介の心の内から出た曲だよ。君の鼓動と生命の詩……」
「ぼくの?」
「そうだよ。ぼくはずっと探していたんだ。ぼくと同じ感性を持つ者を……。失われた魂の片割れを……。君はその魂ではないけれど、ぼくと一つになり得る音楽を持っている。だから、いっしょに行こう」
心が痺れて時間が止まる。憧れていた明日へ、辿り着くことができるかもしれない……。しかし、その先にあるものをスクナは約束してくれるだろうか。少年は訊いてみた。

「どこへ行くの?」
「遠くへ……」
キャンドルが灯ったようなスクナの瞳。
「どうして?」
鍵盤から滑り落ちそうになる指を必死にそこへ戻しつつ、彼はスクナの少年に問うた。
「だって、優介、君は寂しいのでしょう? ピアノが弾けなくてすごく辛いと思ってるんだ。でも、もうそんなこと気にしなくていいんだよ。ぼくと来れば、悲しいことなんかない。音を失くして悲嘆にくれることだってないんだ。君自身が音そのものになれるのだから……。ぼくと同じようにね」
「君と同じように……?」
少年の中で何かが震えた。

「そうだよ。君もなれるんだ。永遠の命を持ったオトスクナに……。どう? 素敵じゃない?」
「でも……」
少年の心は葛藤していた。失くしたくないものがあった。それが何なのか今はもう思い出せない。しかし、とても大切なものだったことだけははっきりと覚えている。
(何だったろう? ぼくにとって音楽と同じくらい大切だったもの……)
光……。閃く光のように蝶が過ぎた。その白い羽が鍵盤の上に落ちる。それは一枚のハンカチだった。繊細なレースでできた白い……。

(そうだ。ぼくにはもう一度会いたい人がいる。彼女のためだけにぼくはピアノが弾けるようになりたかった。彼女のためだけに弾きたいピアノがあるんだ)
「優介……」
光のヴェールが薄れていった。と、同時に和音のオーラが暖色から寒色へと変わる。メロディアスな曲想は少しずつ規則的になり、ワルツから練習曲へと移行した。それでもまだ、その音楽は優介の心を魅了するには十分過ぎるほどであった。しかし、彼は現実へと戻って来た。

「ごめんね」
優介が言った。二人並んでピアノを弾いて、二人並んで互いの音を分け与えた。
「ぼくは君といっしょには行けないんだ」
緩やかに音を奏でながら和音が頷く。

「君を欲しがってる者がもう一人いる。それは多分……」
和音の心のずっと奥でそう誰かが囁くのだ。

「ごめんね。でもぼく、諦めないよ」
優介が言った。
「ピアノがなくても、練習はできるんだ。だから、絶対に諦めない」
「そうだね」
和音がそっと腕を伸ばす。それはまだほんの2つか3つの幼児の腕でしかなかった。その小さな手が打ちこんだ音の楔。

「忘れないでね」
和音が言った。
「君は音を繋ぐ希望……君が奏でる音は翼となって世界へ飛ぶんだ」

――忘れないで。そして、伝えて……
(ぼくのことも、ピアノのことも……。そうすればきっと……)


唐突にまた視界が開けた。そして、耳には現実の音が戻って来た。そして、スクナは消えた。
「和音! 和音、どこ?」
いくら呼んでも、返事はなく、どこを探してもその姿は見えなかった。
「和音……」
デフォルメされた象の影……。その背に乗る小さな男の子。その影が遠い水色の空へ駆けて行く……。
「離れていても、ぼく達、友達だよ。いつまでも……ずっと友達でいる」
さわさわと梢が鳴った。

――またいつかどこかで……

風に乗って微かに、そんなメロディーが聞こえたような気がした。